高杉達がやらかした文久2年末の「英国公使館焼打ち事件」の前に「外国公使暗殺未遂事件」ってのがありました。
「英国公使館焼打ち事件」は「外国公使暗殺未遂事件」のリベンジ色が強く、「英国公使館焼打ち事件」を描くなら「外国公使暗殺未遂事件」も調べなきゃってんで調べてみました。
長州藩の藩論の転換など、政治的な背景が絡むのでちょっと難しいです。
阿部の意訳+感想などを交えてざっくりまとめてみました。
書籍で調べた内容ベースで書いてますが、素人の調べなので間違ってるかもしれません。
参考書籍は最後に一覧があるので興味の有る方はどうぞ。
ただ誰が何月にどこに居たかは一部ネットの情報を参考にしてます。
☆がついてるのはネットから参照した情報です。
また、いつもTwitterで遊んでもらってるあきさん・kisaragiさんにも情報を頂きました。
貴重な面白話をありがとうございました!
外国公使暗殺未遂事件実行犯
- 高杉晋作(24)
- 久坂玄瑞(23)
- 大和彌八郎(28)
- 長嶺内蔵太(27)
- 志道聞多(28)
- 松嶋剛蔵(38)
- 寺嶋忠三郎(20)
- 有吉熊次郎(21)
- 白井小助(37)
- 赤禰幹之丞(25)
- 山尾庸造(26)
- 品川彌次郎(20)
以上12名。
外国公使暗殺未遂事件は「11名」で決行と記述されている事が多いです。
ただ史料によって参加メンバー「11名」「12名」「13名」と安定しません。
松嶋さん・小助さん・堀さんが入ってたり入ってなかったり。
堀さんは本人が書いた伝家録という本で焼討ちから参加と書いているのでこの件には不参加。
何冊か史料を照らし合わせてみたんですが
おそらく「11名」という数字は
事件後に作られた血盟書から小助さんの名前が切り取られている事からきてるんじゃないかと。
なので実行犯はリストの「12名」と解釈しています。
文久元年3月
長井雅楽「航海遠略策」を長州藩の藩是(藩論)に。
朝廷・幕府もこれを支持。
航海遠略策とは?
長州藩・長井雅楽が提唱した政治論。
外政面:開国
内政面:公武合体
文久元年3月の時点では世情的に現実的かつ理想的な策だった。
公武合体とは?
朝廷(公)の伝統的権威と幕府や諸藩(武)を結びつけ、幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動の事。
文久元年9月22日
萩に居た久坂が京都伏見に到着(☆)
文久2年1月15日(1862年2月13日)
「坂下門外の変」
公武合体推進派の老中・安藤信正が、江戸城坂下門外で尊攘派の水戸浪士6名に襲撃され負傷。
坂下門外の変を受けて久坂も攘夷の流れに同調。
長井雅楽の「航海遠略策」は「日米修好通商条約」に無勅許調印した幕府に迎合し、天皇(朝廷)を軽んじるものとして弾劾。
長井雅楽を消そうと動き出す。
つまり、この時点では久坂は藩の方針に反対だった。
桂さんも反対。
来原さんは賛成してた。
高杉達も反対だったけど、来原さんに可愛がられてた俊輔はどうだったんだろう?
すっごく複雑な気持ちだったと思う。
文久2年4月
朝廷が薩摩の助言を受けて開国に反対しだす。
長州藩はこの時点では開国推進だったから「ちょ、マジでか?」状態。
久坂は相変わらず長井を消そうとしてる。
文久2年4月29日
高杉が長崎から上海へ出発
文久2年7月初旬
京都の長州藩邸で御前会議。
周布さん・桂さんが頑張って長州も藩是を破約攘夷に転換。
長井失脚の流れを作る。
長井に賛成してた来原さんも孤立気味でちょっと微妙な立場に。
来原さんに可愛がってもらってた俊輔はさぞ複雑な心境だっただろう……。
でもこの後の流れを見ると、長州が藩是を切り替えるギリギリ絶妙のタイミングだったんじゃないかな?
久坂・周布さん・桂さんは流石だなぁって思う。
文久2年7月14日
高杉が上海から長崎に到着(☆)
文久2年8月12日
高杉が長崎から萩に到着(☆)
文久2年8月16日
桂さん京都から江戸に到着(☆)
日にち不明だけどその後、世子さまも江戸に到着(☆)
文久2年8月21日(1862年9月14日)
「生麦事件」
武州生麦村(横浜)で薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷。
文久2年8月23日
高杉が萩から京都に到着(☆)
文久2年8月29日
来原さんが江戸桜田の長州藩邸で割腹自殺。
俊輔ショック。
来原さんが自殺に至る経緯は俊輔の見解では以下の通り。
藩是の転換により、長井支持だった自分の間違いを認めた来原さん。
藩の新たな破約攘夷の方針通り、横浜で異人を焼き打ちをする!と殺る気満々で出かける。
品川あたりで世子さまの使いに(勝の兄ちゃん)止められ連れ戻される。
世子さまはたまたま江戸にいた。
世子さま直々に「確かに攘夷はしなきゃいけないけど、軽はずみに過激な事すんなよ」と怒られる。
来原さんは良かれと思ってやった事が逆に世子さまに迷惑をかけたと反省。
翌日、責任をとって割腹自殺。
来原さんいい人なんだけど脊椎反射で動き過ぎだろう。
世子さまが可哀想すぎる。
来原さんを心配しての注意だったのに。
長州こんなんばっかりだから今さら驚かないけど……。
文久2年閏8月3日
高杉が在江戸学習院用掛を命ぜられる(☆)
文久2年閏8月10日
高杉が脱藩(☆)
文久2年9月4日
高杉が笠間(茨城)の加藤有鄰を訪問(☆)
脱藩した事にビビった加藤さんは長州藩に高杉を引き渡す(☆)
文久2年10月28日
三条実美と姉小路公知が、攘夷の勅旨を幕府に伝えるため江戸に到着。
護衛で土佐の武市さんも一緒に来てた。
「幕府を説得するから長州も手伝えよ」と言われ、世子さまも加わって頑張るけど幕府が渋りまくり。
文久2年11月2日
京都に居た久坂が江戸に到着(☆)
このあたりで高杉・久坂・聞多など長州藩若手攘夷過激派が江戸に全員集合。
水戸は坂下門外の変、薩摩は生麦事件。
「なんか完全に長州出遅れてね?藩是も攘夷になったし、このあたりで僕たちも根性見せとこうぜ!」と高杉を筆頭に長州若手が外国人を殺る気満々に……。
文久2年11月上旬
中々成果を上げられない藩や、幕府の煮え切らない態度にイラッとした高杉。
幕府が外国と揉めれば攘夷をせざるを得なくなるので、外国人を殺りまくろうと決意。
聞多に外国人殺害計画を持ちかける。
聞多大賛成。
聞多が大和・長嶺を誘い品川の土蔵相模で謀議をするが、特に具体的なプランは無かった。
外国公使暗殺未遂事件は場当たり的な犯行だった。
ある日、聞多が「11月13日に某国外国公使が武州金沢(横浜)まで遠出する」との情報を手に入れる。
それを狙う事に決める。
2ヶ月前に生麦事件があったばっかなんだから外国公使も自重しろよ……。
話を聞いた久坂は「単なる暴挙で真の攘夷にはほど遠い」と最初は反対してた。
高杉もそれは充分わかってた。
喧嘩になって高杉が久坂を斬ると刀を振り回したりもした。
結局、久坂は了承してメンバー入り。
寺忠・有吉・やじ・赤禰・小助さんも加わり、総勢10名に。
聞多が土蔵相模へのツケ+全員の金沢行きの資金100両を苦心して集める。
多分、来島さんにたかった?
【追記】
kisaragiさんに頂いた情報によるとやっぱり来島さんカモられてました……。
この時の聞多の100両金策があまりに酷いと素敵な情報を頂きました。
ぜひkisaragiさんのコメントもあわせてご覧下さいwww
言い出しっぺは高杉なのに聞多ばっかり働いてるよね。
久坂が武市さんに計画を話す。
何の意図で話したんだろうね?
暗殺計画が武市さん→山内容堂公→世子さまに伝わる。
更に三条実美と姉小路公知にも伝わる。
文久2年11月12日
午後、高杉・聞多・大和・長嶺が神奈川宿の下田屋に入る。
夜、他のメンバーも下田屋入り。
松嶋さん・山尾はここで合流。
総勢12名に。
文久2年11月13日
「外国公使暗殺未遂事件」
早朝、出発準備をする高杉たち。
宿のまわりを幕吏らしき人間がうろついてるのに気付く。
幕吏は土佐藩の通報で警備を強化していた。
タイミング良く三条実美と姉小路公知の使者が到着。
幕府が攘夷の勅旨を受け入れる時期も近いので、暴挙はやめるよう伝える。
世子さまが相当ヤバい事態と気付き自ら大森へ出向く。
この日の夜、横浜の英国公使邸に江戸から来た外国奉行が現れる。
横浜付近で特殊な浪人の一隊が発見され、外交官幹部の皆殺し計画を立てて結盟していると伝える。
英国公使はこの情報はガセだと判断したが、実は本当で高杉達の事だった。
イギリス人もっと危機感持てよって感じだよね。
悪いのは間違いなく高杉達だけどね。
文久2年11月14日
蒲田の梅屋敷で世子さま+周布さんに説教される。
世子さま直々に足を運んでくれた事に感動したのかビビったのか、聞多が外国公使襲撃を白状。
皆で潔く腹を切ろうと主張。
聞多の得意技の死ぬ死ぬ詐欺と言うか、腰の低い脅迫です。
切腹が嫌な高杉は得意の屁理屈を並べ、世子さまと周布さんを言いくるめます。
しかもこの後、お酒を飲ませてもらいます。
世子さまはきっと来原さんの件もあるし、高杉達に「過激な事は駄目だけど、怒ってる訳じゃ無いからあんまり気に止まない様にね!君たちの事は大好きなんだよ!」って意味も込めてお酒を飲ましてくれたんだと思う。
なのにここで周布さんが飲み過ぎて大暴れ。
同席していた容堂公・土佐藩士にキレられそうになり、高杉が場をおさめる。
高杉達をたしなめる筈が、相当グダグダに終る。
ちなみに周布さん、この10日位前の11月5日にも藩邸で世子さま・容堂公と飲んでて泥酔。
容堂公に暴言吐いてキレられてます……。
きっと武市さんとかもドン引きだっただろうね……。
高杉たちは江戸桜田の長州藩邸内の物見所と斉藤道場に別れて謹慎処分になります。
不良高校生かよ……。
謹慎中に御楯組血盟書を作成。
外国公使暗殺未遂事件に参加した12名全員が署名しました。
全く反省した形跡がありませんw
最初はあんなに反対してた久坂がノリノリで冒頭の文章を書いたりしてます。
あきさんに頂いた資料によると、後日、京都・萩・江戸に居た他の長州藩士が追加で署名しています。
が、俊輔の名前はありません。
調べた限りでは俊輔は江戸にいないので「外国公使暗殺未遂事件」には関わってません。
後の「英国公使館焼打ち事件」からの参加になります。
文久2年11月25日
聞多・長嶺が学習院御用掛を命じられ、姉小路・三条の両公家との連絡役にあたる。
文久2年11月26日
聞多・久坂が姉小路の警護、長嶺・寺忠・楢崎弥八郎は三条の警護の為、各々の旅館へ向かう。
もし自分が両公家の立場だったら「なんで問題起こそうとしてたコイツらが護衛なんだよ!長州何考えてんの?また何かやらかしたらこっちも責任問われたりするんじゃね?どうなの?」って思うけどな……。
文久2年11月27日
両公家が江戸城登城。
将軍・家茂に攘夷督促の勅書を渡す。
幕府は将軍上洛を考えざるをえなくなる。
同日、幕府衛兵一名が数名の攘夷派志士により惨殺される。
これ多分、御殿山に建設中の英国公使館の警備してた幕府の人なんだよね。
長州の護衛に行ってない組の仕業なんじゃないの?って思うんだけどどうなんだろう。
文久2年12月7日
両公家、京都に帰る。
文久2年12月9日
世子さま、京都に帰る。
幕府は外国人殺傷事件の頻発からイギリスに御殿山の公使館使用中止を求める。
が、イギリス側はこれを拒否。
イギリス人マジ危機感無さ過ぎ。
文久2年12月12日(1863年1月31日)
「英国公使館焼打ち事件」
両公家と世子さまが帰ったらすぐにこれです。
高杉たち反省の色、皆無です。
焼き討ちに関しては「長州藩・英国公使館焼打ち事件まとめ」を参照。
参考書籍
- 伊藤博文直話 (新人物文庫)
新人物往来社
価格: ¥700
- 高杉晋作を歩く―面白きこともなき世に面白く (歩く旅シリーズ歴史・文学)
一坂 太郎
吉岡 一生
山と溪谷社
価格: ¥1,575
- 高杉晋作―動けば雷電のごとく (ミネルヴァ日本評伝選)
海原 徹
ミネルヴァ書房
価格: ¥2,940
- 密航留学生たちの明治維新―井上馨と幕末藩士 (NHKブックス)
犬塚 孝明
日本放送出版協会
価格: ¥5,000〜
- 萩ものがたり17「若き日の伊藤博文」
- 萩ものがたり28「長州ファイブ物語」
- 久坂玄瑞/武田勘治
- 動けば雷電のごとく 高杉晋作/海原徹
AUTHOR 阿部マコト
1982年12月10日生まれ。東京都出身。イラスト・グッズ・ホームページ制作の技術者です。長州藩の三人党と新撰組の原田が好き。歴ヲタ女子が普段使いできるバレない幕末グッズのお店「小間物屋歴創」を運営。かわいい甲斐犬の相棒・カイちゃまと暮らしています。
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