長州藩・英国公使館焼打ち事件まとめ

2011-05-17 01:01
長州藩

文久2年末の「外国公使暗殺未遂事件」後、高杉たちがやらかした「英国公使館焼打ち事件」についてまとめます。

素人の調べ・意訳なので間違ってるかもしれませんが、書籍で調べた内容ベースで書いてるのでまぁまぁかと。
参考書籍は2011年5月現在、全て素人でも入手可能な書籍です。
最後に一覧があるので興味の有る方はどうぞ。

ただ本によって微妙に人選が異なっていたり、微妙に事実関係が違っていたりして曖昧です。
火薬の製法についてはネットの情報を元にしていますのでご注意下さい。

英国公使館焼打ち事件実行犯

  • 高杉晋作(24)
  • 久坂玄瑞(23)
  • 大和彌八郎(28)
  • 長嶺内蔵太(27)
  • 志道聞多(28)
  • 有吉熊次郎(21)
  • 白井小助(37)
  • 赤禰幹之丞(25)
  • 山尾庸造(26)
  • 堀真五郎(25)

外国公使暗殺未遂事件に参加した御楯組血盟書署名メンバーから、やじ・寺忠・松嶋さんの3人が抜けた上記10名に、追加メンバーとして以下の2人が加わります。

  • 福原乙之進(26)
  • 伊藤俊輔(22)

以上12名で行いました。

やじは風邪で病欠。
寺忠・松嶋さんが抜けた理由は不明です。

ウチの妄想だと、やじと寺忠は松門の同じ歳で仲良しだから片方が風邪をひくともう片方にもうつります。
今回もやじ→寺忠にうつり松嶋さんが看病のため残ったという設定になっています。
松嶋さんは松陰先生とは昔からの友達なので、松陰先生が可愛がってたやじを可愛がってたんじゃないかなぁ?と思います。

文久2年12月上旬

高杉が英国公使館焼打ち計画を発案。

両公家と世子さまが帰ったのを見計らって土蔵相模で諜議と事前準備を開始。
場所は聞多の馴染みのお里の部屋。

当時、女郎は高杉達に対して偽名を使わず実名を使っていた。
結構プライベートな仲だったのかな?

事前準備の内容は

  • 羽織の裏に袖から袖まで太さ2寸の白木綿を縫い付ける
  • 焔硝(えんしょう)の炭団(たどん)を作る

羽織りは暗闇で同士打ちにならないように、目印にする為です。
いざ乱闘になったら羽織りを裏返しにする。
縫い付けは各々やったのか誰かがまとめてやったのかは不明。

焔硝の炭団は聞多と福原さんが作った。
材料の仕入れや作成に寺忠も関わっていたと後に掘が証言しています。
明倫館とかで火器の扱いを習ってるから知識があった人達で作ったんじゃないかと。

焔硝は当時の火薬の呼び方。
炭団は炭(木炭、竹炭)の粉末とつなぎを混ぜた団子を乾燥させた燃料。
外観は真っ黒な球。

火付け役は聞多・掘・福原・大和の4人。
後は見張り役。

出来た焔硝の炭団は火付け役が2個づつ持った。
事前に配布していたのか集合してからかは不明?

焼き打ちの当日、火付け役の1人福原さんが土蔵相模に来る途中?公使館に行く途中?
幕吏に職質をかけられ辻番所へ任意同行。
緊張して挙動不審だったのか、見るからにチンピラの風体だったのか……。

【追記】
聞多の伝記「井上伯伝」を中古で購入した所、福原さんだそうです。
加えてしょっぴかれた理由は「辻番所の壁に立ち小便をしたため」でしたw
しょうもねぇ!ほんとこいつらしょうもねぇよ!!

火付け役福原さんは焔硝の炭団を所持していたので、証拠隠滅を計るため、千切って食べた。

この「焔硝の炭団を千切って食べたのは誰か?」には諸説あります。

  • 司馬遼太郎先生の世に棲む日々によると「福原」
  • 一坂先生の本によると「大和」

ウチでは基本的に小説は資料として使いませんので、一坂先生説を取りました。

火付け役は

  • 海原先生の本によると「聞多・掘・福原の3人」
  • 犬塚先生の本によると「聞多・掘・福原の3人」

とあります。
コレを見ると食べたのは大和じゃなくてやっぱり福原さん?とも思いますが……どうなんでしょう?


とりあえずウチでは火付け役は「聞多・掘・福原・大和の4人」で食べたのは「大和」にします。

余談ですが、長州藩がある中国地方では戦国時代に効率よく焔硝を製造する為、ヨモギの根に人の小便をかけるという製法を発見しました。
江戸時代も似た様な原理と製法で作っています。
この時に使った焔硝が長州産だった場合、小便入りだった可能性が非常に高いですw

前回、土佐藩に情報がもれた事で、高杉が「長州人の手だけでやる」ってこだわりを持ってたみたいなので、素材も地元産にこだわって使ってた可能性はありますよねwww

文久2年12月12日(1863年1月31日)

深夜、土蔵相模に全員集合。
久坂と高杉は芝浦の海月樓で会ってから向ってた?

時間が早いので宴会。
鯨飲放歌の飲みっぷり。

俊輔が聞多に焔硝の炭団が出来たか確認する。
聞多は「ばっちりだ!」と、両方の懐から手ぬぐいに包んだ焔硝の炭団を出す。
俊輔がまだ時間も早いし身につけてると危ないと指摘。
焔硝の炭団をお里の部屋の額の裏に隠す。

多分聞多が酔ってベロベロだったからだと思うw
そもそも俊輔は、そそっかしい聞多が一番大事な焔硝の炭団を扱う事に不安を感じていた。

途中、俊輔が抜けて夜見世でのこぎりを調達。
値段は二朱(7500円位)で、おそらく俊輔が自分のお小遣いから出したと思われる。
買ったのこぎりは土蔵相模の入り口にあった天水桶に隠す。
再び部屋に戻って宴会に参加。

文久2年12月13日(1863年2月1日)

九つ半(AM1:00)に土蔵相模を出発。
俊輔は隠しておいたのこぎりを持ち出す。

御殿山の英国公使館に到着。
濠を渡ると大きな丸太の柵があって一同呆然。
久坂が「柵があるなんて気付かなかった」ともらす。
下見してなかったんかい!?って話だよね……。

俊輔がのこぎりを取り出し一同喝采。
半時(1時間)かけて柵を2カ所切断し1人づつ侵入。

幕府の警備員に遭遇。
高杉が峰打ちを喰らわして撃退。

公使館内部へ侵入。
燃料になるドアと障子を外して2カ所に積み上げる。
俊輔が聞多に「焔硝の炭団を出せ」と言うと聞多が「お里の部屋の額の裏に忘れて来ちゃった……」という。
俊輔の不安的中。

仕方ないので燃料を4カ所に増やして火をつける。
木が新しくて火がなかなか大きくならない。

火が大きくなったら一同離散。
あわてて逃げると不審がられるのでわざと悠々と引き上げた。
けど、聞多がテンパリすぎて濠に落ちて泥だらけに……。

誰かが逃げる途中、女郎から貰った恋文を落とす。

狸穴(ますあな)辺りまで来ると火の手はもっと大きくなっていた。
近隣住民の証言から数回の爆薬による爆発音が起こった事が分かっているので、聞多以外の火付け役はちゃんと焔硝の炭団を持っていたと思われる。

火消しがどしどし出場。
一同はその様を眺めて快哉を叫んだ。

この時、品川停泊地の軍艦から礼砲が発射されたとの証言がある。
イギリス当局は放火犯たちの合図だと思って捜査したらしい。
が、この礼砲が何を意味するのかは不明のまま。

バラバラに分かれて飲み直す事になった。
聞多は一人で土蔵相模に戻った。
高杉・久坂は芝浦の海月樓で火事を眺めながら飲んだ。
掘・小助は高輪の引手茶屋の樓上で火消しが奔走するのを見て楽しんだ。
俊輔はそのまま直帰。

夜、俊輔が聞多を連れてお里の部屋に忘れた焔硝の炭団を取りに行く。
幕吏にみつかったら明らかな証拠品になるので、俊輔は一日中、焔硝の炭団の事が気になってビクビクしてた。
ていうか、聞多は焼き打ち後土蔵相模に戻ったんだから、さっさと始末しとけって話だよね。

お里が留守なのを見計らって部屋に侵入。
額の裏を探ると焔硝の炭団がない。
悠長な聞多も流石にヤバいと思ったのか2人とも真っ青。

そのうち、お里が戻って来る。
聞多はわざと落ち着いた様子で「昨日、悪戯で額の裏に炭団を隠したんだけど知らない?」と聞く。
お里は「さっき取り出して炭箱に入れました。火鉢に足しましょう」と焔硝の炭団を火箸でつかんで火の中へ入れようとする。
入れたら大爆発するので2人は大慌て。

聞多がお里の手を抑えて「馬鹿な事をするな!」と叫ぶ。
お里は見つけた炭団がただの炭団じゃない事に気付いていたし、2人の様子から焼き打ちの犯人だと確信した。
聞多がお里を切ろうとする。
お里は通報する気はないし、2人の味方だから安心しろと言う。

見つけた焔硝の炭団は夜中のうちに海に捨ててくれたそう。
「命がけの大事をするのに肝心の道具を忘れるなんて、先が思いやられるわ!」と一喝。
聞多はこっぱずかしくてしょうがなかったらしい。
お里さんめっちゃ良い女。

文久2年12月13日(1863年2月1日)中か翌日

久坂・山尾がいち早く江戸を出立。
佐久間象山先生の招聘に向う。
他のメンバーもみんなバラバラに江戸を離れる。

数日後

土蔵相模の女郎が幕吏に呼び出される。
公使館から逃げる時に誰かが落とした恋文から足がついた。
明治になってから俊輔は自分じゃない!って言ってるけど……どうなんだかね……。

差出人は本名の「花」と書いてあって土蔵相模の屋号もない。
「花」って名前の女の子は江戸中にごまんと居るから女郎はまんまとしらを切り通した。

文久2年12月15日頃

聞多・大和・長嶺・有吉がそれぞれバラバラに江戸を出立。

犯人不明で終った理由

この時期、朝廷は攘夷の方針だったので御殿山に英国公使館を建てる事に反対していた。
江戸市民は桜の名所を外国人に奪われたと不満を持っていた。
結果、幕府が深く追求しなかった。

それぞれの犯行動機

高杉

上海留学で密かに開国論に目覚めつつあったが、幕府の開国のやり方が気にくわない。
高杉には「一旦破約攘夷をして、対等の関係で開国すべき」という松陰先生の教えが根底にある。

外国人惨殺の「狂拳」は、所詮「小攘夷」であることは認識している。
が、それを機にいっきに情勢不安をかきたてる事ができれば、松陰先生の教え通りの「大攘夷」に繋がると考えた。

生麦事件で薩摩に対抗心を持っていたのも動機のひとつ。

俊輔

公使館が完成して大国使臣を迎え入れる直前に、これを焼き払ったらさぞ憤慨するだろう。
幕府の面目丸つぶれになるのは言うまでも無い。
外交はかならず困難になり、幕府は攘夷を断行せざるをえなくなるだろう。
攘夷派の志士は奮起するに違いない。
つまり松陰先生が唱えた「草莽崛起 」の完成となる。

留学に関しては20歳の頃、来原さんや友達の石田太郎への手紙で「イギリスに行きたい」って書いてるので、結構前から興味は持ってた。

高杉や久坂ほど政治的な深い意図はない印象。
刑死した松陰先生の遺体を引き取った時(俊輔当時19歳)に受けたショックとか、来原さんが自刃した経緯とか、そういった感情的な面で敵討ちみたいな想いが強かったんじゃないかなぁ。

他のメンバー

政治・社会情勢の理解度に差異はあるものの、高杉・俊輔とほぼ同じ考え。
中には松陰先生・高杉・俊輔への人情やノリで参加した人も居るっぽい。

犯行動機の根底にある松陰先生の「攘夷的開国論」

欧米諸国の一方的な押しつけによる強制的な開国は真の開国では無い。
まず攘夷を実行し、諸外国の要求を一旦退ける(=破約)。
それから改めて自主的に開国をすべき。

国際関係を弱肉強食的な権力政治観で捉える見方。
アメリカ・イギリス・ロシア・オランダを「外夷」「洋賊」「群夷」と蔑視。
神国日本を侵す憎むべき敵であり「力」をもって圧伏するべき相手とする。

彼らの最期

3分の2が天寿を全うする事なく、自刃・刑死・病死・暗殺などで死亡している。

名前 没年月日 事件後 享年 その後の略歴
福原乙之進 文久3年11月25日
(1863年12月23日)
1年 27歳 赤坂の刈谷藩邸内で捕吏に襲撃され負傷し自刃
久坂玄瑞 元治元年7月19日
(1864年8月20日)
2年 25歳 蛤御門の変で鷹司邸内で共に自刃
寺嶋忠三郎 22歳
有吉熊次郎 23歳 蛤御門の変で鷹司邸内で負傷し自刃
大和彌八郎 元治元年12月19日
(1865年1月16日)
30歳 俗論党により処刑
甲子殉難十一烈士
長嶺内蔵太 29歳
松嶋剛蔵 40歳
赤禰幹之丞 慶応2年1月25日
(1866年3月11日)
4年 29歳 俗論派・正義派諸隊の二重スパイ容疑(冤罪)により処刑
高杉晋作 慶応3年4月14日
(1867年5月17日)
5年 29歳 結核により病死
品川彌次郎 明治33年2月26日
(1900年)
38年 56歳 明治維新を迎え内務大臣を務める
肺炎により病死
白井小助 明治35年6月18日
(1902年)
40年 77歳 明治維新を迎えるが仕官はせず
伊藤俊輔 明治42年10月26日
(1909年)
47年 68歳 明治維新を迎え初代内閣総理大臣などを務める
ハルビンで暗殺
堀真五郎 大正2年10月25日
(1913年)
51年 76歳 明治維新を迎え東京始審裁判所長などを務める
志道聞多 大正4年9月1日
(1915年)
53年 79歳 明治維新を迎え初代外務大臣などを務める
山尾庸造 大正6年12月21日
(1917年)
55年 80歳 明治維新を迎え東京大学工学部の前身・工学寮を創立

参考書籍

伊藤博文直話 (新人物文庫)
伊藤博文直話 (新人物文庫)
新人物往来社
価格: ¥700
高杉晋作を歩く―面白きこともなき世に面白く (歩く旅シリーズ歴史・文学)
高杉晋作を歩く―面白きこともなき世に面白く (歩く旅シリーズ歴史・文学)
一坂 太郎
吉岡 一生
山と溪谷社
価格: ¥1,575
高杉晋作―動けば雷電のごとく (ミネルヴァ日本評伝選)
高杉晋作―動けば雷電のごとく (ミネルヴァ日本評伝選)
海原 徹
ミネルヴァ書房
価格: ¥2,940
密航留学生たちの明治維新―井上馨と幕末藩士 (NHKブックス)
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価格: ¥5,000〜

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